令和元年、明けましておめでとうございます。
俺のマシン未だに「0話」で変換されちゃうのはどうにかしたんだけど、それはさておき、平成という時代を生き抜いてきた人間として、どんな時代だったのか振り返ってみようと思い、自らのターニングポイントとなるべき出来事や事件をツラツラと書き殴ってみました。
なぜ海外(ロンドン)住みなのか、なんでブログなぞ書いてるのか、そんなことがなんとなくわかってもらえたら嬉しいです。
あれもこれも書き殴ってたら終わんなくなっちゃったので、何回かに分けて更新します。
今回は、平成元年〜平成11年まで。
あくまで個人的な記録です。お暇な人だけどうぞ。
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平成元年初日 背が伸びた…?
平成元年初日。道路に車が走ってないことをいいことに、淡いブルーの奇跡の中でローラースケートを履いて、意味もなく唯一開いてた近所の酒屋まで。
店内の大きな鏡に映る自分を見て、「あれ!俺背高くなってね?平成のおかげじゃね!?」と大歓喜したのだが、のちにスケートを履いてることに気付きダズーン。
結局そこから一切伸びてない。一万以上もした「上嶋式伸長法」意味なし!
平成元年7月 アメリカ縦断
父親の知り合いで、地元で英会話を教えていたテキサス生まれテキサス育ちのジャン先生とアメリカへ初海外。
ジャン先生の知り合いの家を転々としながら、1ヶ月ほどかけ、オレゴン、アイダホからテキサス、メキシコとアメリカを縦断(その間、小人症のイベントなどにも参加し、ETの中の人やR2-D2の中の人などに出会うなど)。
最初は見るもの聞くもの全て新鮮でドキドキワクワクが止まらなかったものの、片言の英語で頑張ろうとするそばから、ジャン先生が片っ端から日本語に訳してしまい全く身にならず。親切心からということはわかってはいるが、それが嫌で旅の途中から険悪ムードに。今思えば「先生、俺英語で頑張ってみるんで!」と一言言えばよかったのだが、それが言えないほどの隠キャだったのだから仕方ない。
それはさておき、アメリカのデカさを実感出来たのは収穫だった。アイダホはリアルガチで付け合わせのイモの量が半端ないイモの国だったし、テキサスの田舎で食べたビーフバーガーを超えるバーガーには未だ出会っていない。そして、先が水平線に消えて無くなるような、真っ直ぐにひたすら続くハイウェイを車で走った時は「これぞU.S.A!」と身震いしたものだ。
さらにテキサスのオースチンで一人暮らしのおばあさんの家にホームステイした際、「ちょっと散歩してくる」と言うと、「ちょっと待って!」と引き止められ、まだ高校生だった俺に渡されたのが小さな回転式の拳銃。結局「無理無理無理!」つって警棒に変えてもらったのだが、あの時感じた重みは今も忘れられない。そしてテキサスとは、否、アメリカとは何か?を目の前に突きつけられた気がした。
第一次プロレス幻滅期もこの時だ。本場アメリカで、あのWWF(現WWE)をケーブルテレビで意気揚々と観戦!のハズが、ワンショルダーのヒールレスラーがわずか3分、ベビー(たしかランディサベージだったと思う)のボディスラム一発で沈むという衝撃の光景に、当時少年だった俺の絶望は計り知れなかった。あれほど「最強」を信じて疑わなかったプロレスが「ショー」であるという現実をまざまざと見せつけられたわけだ。
「プロレスとは何か…」となるのは必然で、より一層「U」原理主義者の道へ(当時Uだけはガチと信じていた)。そして空手やキックなど格闘技方面の沼へと沈んでいくことになる。
しかし、その後自らも空手家のはしくれとして稽古やトレーニングを行うことでそのイメージは一変する。
素人には到底不可能な2時間のスクワットや超重量のウェイトトレーニング。真夏のリングで60分動きっぱなしの異常なスタミナ。さらに一挙手一投足で観客を魅了するカリスマ性。これぞプロフェッショナルではないか。これがプロレスなのだ。
そして最後はまさかシェーン・マクマホンにトドメを刺されるとは…。俺を幻滅させたWWEのオーナーの息子にである。
観よ!俺を目覚めさせたシェーンのクソダイブを!!!
今なら声を大にして言える。プロレス最高!!
大幅に脱線。
人の印象も住むエリアによって違った。特にガキな、ガキ。
ロサンゼルスでお世話になった家の中学生くらいの兄弟は、「こいつ英語わかんねーぞ!クソじゃね?」って感じで、非常に都会っ子らしい態度で俺に接してくれた。あまりにもウザいので、竹中直人ちっくな笑いながら怒る人調で「うるせーコノヤロー」と日本語で言ったら、「あ、コイツ怒ってんじゃね!?」みたいなことをコソコソ言い出したので、海外で竹中直人は完全敗北。
その一方、オレゴンのど田舎で出会った小学校高学年くらいのネイソンは、俺のことを「カラテキッド」とからかいながらも、一緒に田舎道を歩きながら「あの花は何、この動物は何」と指差しながら英語を教えてくれた。
ホームステイ最後日、わずか5日くらいの滞在だったけれど、色んな思い出が色々込み上げてきて裏庭で隠れるようにヒックヒック嗚咽してしていると、後ろに人の気配。振り返ると、いつもはニヤニヤしているネイソンが、初めて見せる神妙な面持ちで立っていた。週末の教会では子供たちのガキ大将、普段は親の言うことすらきかないやんちゃなネイソンが、英語で何も話せない、10も年の離れた俺の肩を叩きながら、何度も黙ってうなづいてくれた。
「もう一度会いたい人は?」と問われたら、間違いなくこのネイソンだ。
向こうが覚えているかどうかはわからないけれど、「俺のこと覚えてる?」くらいの会話はできるようになったよ。
でもこの時の写真が一枚もない。当時はデジカメもなかったし、写ルンですみたいのを持っていったりもしたけど、ほとんど写真なんて撮っていなかった。
今、目に映るもの全てを記録したいという衝動はここからだ。
そして、この喜怒哀楽入り混じったアメリカ滞在が、漠然とではあるが、海外に住んでみたいと思うきっかけになったのは間違いない。
平成2年2月2日 サッカー部を退部後、空手道場に入門
同調圧力の権化であるサッカー部を退部し、暇を持て余していた俺は町の道場で空手を始めた。
理由は「何かを蹴りたい衝動」。
球を蹴るのを諦めたので、ガラス越しに見えるサンドバックを思い切り蹴ってみたいと思ったのだ。
そしてなにより、空手は「団体競技ではない」から。
サッカー部時代に感じた「下手くそは死ね」という独特の空気や閉塞感に辟易していた俺は、己の身ひとつで出来る何かを探していたのだと思う。そしてそれが空手だったのだ。
ミスをしても罵声を浴びることもないし、白い目で見られることもない。努力はやった分だけ自分に返ってくるという、全てが自己完結出来る素晴らしさ。これは空手という個人競技ならでは。
しかし、その道場が、フルコンで名を馳せた(実際に身体に突きや蹴りをバッシバシ当てる)喧嘩空手の名門「極真」であることを知ったのは入門してから。
そんなわけで、正直毎週生きた心地がしなかった。道場までの道すがら、胸の鼓動は異常なほど高鳴り、チャリを漕ぐ足は震えた。
しかも師範が、大会用の競技空手ではなく、一撃必殺を求める武道家然とした先生だったため、稽古中は常にピンと空気が張りつめたような緊張感。さらに組手も、コンビネーションという概念はなく、手加減なしに強い突きや蹴りを一発思いっきりぶち込む一撃スタイル。
お約束の約束組手なのに、先輩の強烈な前蹴りをみぞおちに喰らい悶絶、一年年下の桐沢君の突きを鎖骨にくらい鎖骨が部分的に凹んだり。
しかし、稽古が終わった後の満足感や開放感は何者にも代え難いものがあった。俺のドMの素養はここで培われたといって間違いない。
その後10年ほど続けることになるのだが、昇級し、大会にも出場することで、何の取り柄のなかった陰キャの俺でも、少しバカリ自分に自信を持てるようになった気がする。
そういう意味では、ボールを蹴ることをやめ、人を蹴ることの選択は間違いではなかったと思う。
ところで、入門日を鮮明に覚えているのは「平成2年2月2日」だから。
平成2年2月2日
2+2+2=6
つまり、
フリーメイソン!!
平成3、4年頃 「さる」という名前の由来
この頃、愛読書であった「格闘技通信」のハガキ職人に。
「ペンネームどうしよう…そうだ!一番優秀な人にあやかろう!」ということで読者ページを見ていると「サルザマン」という人がやたらと採用されている。
「これだ!」というわけで、自分もこの「サル」にあやかり、「グラップラー猿」という芸名で投稿するように。
ヘッタクソなイラストにもかかわらず、大量の投稿の甲斐あり「グラップラー猿展」なる特集を組んでいただくことに成功。編集部の皆さんには感謝。あざす!
そんなわけで、この「さる」という芸名とは結構長い付き合いなので、もはや本名で呼ばれることの方が少なくなりましたクスゼイアン!
そしてこの素人時代の「サルザマン」こそ、何を隠そう、現在デスマッチの帝王と呼ばれる葛西純であることを知ったのはそのだいぶ後(左のイかれた人!)。
本日はWILD HERO新木場大会でした!!
金原弘光さんと『水と油』タッグ!!
誤爆もあったけど見事勝利!!ハガキ職人時代、紙プロに金原さんのイラストを描いて送り、見事に載ったのは内緒の話( ´艸`)#サルザマン pic.twitter.com/Pfj2MaA0mo
— 葛西 純 (@crazymonkey0901) 2016年2月22日
サルザマン画伯の作品!
明日の後楽園大会から新発売のFREEDOMS2016公式ガイドブック(俗に言うパンフレット 1部1000円)
表紙はサルザマンこと葛西画伯が描いてくれました!
皆似てるな♪
一般公募した写真やキャッチコピーも載ってますよ~ pic.twitter.com/Lr2KfvCrvf
— 佐々木貴 (@doms_tono) 2015年12月24日
そう俺は、サルザマンインスパイア系葛西純チルドレン!
平成5年5月 K-1GP’93で歴史の目撃者に
1993年5月、田舎から夜行電車だったかバスで第一回のK-1GP代々木第一体育館に参戦、歴史の目撃者に。
あの時、確かに時代が変わった。そして俺の中で「やっぱ東京だよ!」と完全に針が振り切れた瞬間でもあった。
ちなみに、その時の格好は、ガリッガリの身体にゴールドジムのタンクトップとレインボーカラーのラグトップ(タンクトップの上にざっくり羽織るやつ)。
そしてバギーパンツとエレッセの蛍光イエローのウエストポーチというイカしたコーデ。その格好で滞在先のホテルのこじゃれたレストランで洋風カレーを食した。
あの時俺は、間違いなく最強だった。
平成8年7月 ケアンズで運命の出会い
会社の社員旅行で訪れた、オーストラリア・ケアンズのフェリーの上で運命の出会い。現在も続く、シンガポールの友人アウとの邂逅。
フェリーで偶然隣の席になり話しかけてきた彼とすぐに意気投合。身振り手振りを交え、9割ボディランゲージ1割気合で会話。
しかしこれぞ一期一会。
「じゃあ!」と連絡先も交換せずその場は別れたのだが、次の日の夜10時頃だっただろうか、ホテル近くの大きなショッピングモールをぶらついていると、目の前から見たことある顔が。
そう、一期一会で別れたはずの彼の姿。
お互い指差し確認しながらハグ。「飯行こう!飯!」と誘われ中華レストランに。そこで初めて電話番号を交換。
その時代メールなどという便利なものは存在しなかった。だが、それなしで筆不精で人見知りの俺とここまで続いているのは、彼の人懐っこさのおかげだ。
その後、彼がかけてくる年1、2回の国際電話を経て、年1、2回シンガポールに通う仲になるとはまさに運命である。
そして、彼との出会いこそが、俺がこのアーセナルのブログを書くことに繋がるとは、この時誰が予想できたことか。
偶然が偶然を呼んだ奇跡の邂逅。
この出会いこそが人生最大のターニングポイントと言っても過言ではないかもしれない。
平成9年4月1日 ホームページ 『格闘天国』を開設
これも大きな転機である。
IE4.0、ネスケ(ネットスケープ)2.0の時代、初めて購入したPC「FM-V」を駆使し、手打ちのhtmlでホームページを制作、手作り感満載の『格闘天国』なるサイトを開設。
格闘技全般を扱った、今でいえばポータルサイトの走りだったと自負している。
自分はこう見えて無類の格闘技、プロレス好きなのだが、当時「一撃必殺のかかと落とし」というサイトを運営している人がいて、なんか俺もやってみよーと思ったのがきっかけ。
素人感満載、ウェブサイトと呼べる代物ではなかったけれど、ホームページ黎明期、格闘技のサイトが珍しかったこともあり、色んな雑誌で紹介してもらった。
テキトーに英語サイトも作ってみたところ、嘘かまことか、ドリー・ファンクJr.とかフランク・シャムロックからコメントがきたことがあるのが自慢。
プロバイダはJustnetとか、allesnetとか、linkclubとか、色々試したなぁ…。
ブログという概念がない時代、日記をサイトにアップし始めたのもこの頃から。日常の愚痴や観戦記など、その時の日課が今のこのブログにも繋がっている。そしてこのサイトきっかけで俺は未だに生きていけてる。もはや、ジャパネットの高田社長には感謝しかない(ジャパネットでは買ってないけど)。
ちなみに、当時ネット上で出会った数人のメンバーとは未だに繋がっており、もう二十年以上の付き合いになる。顔を合わせれば当時の空気が蘇り、くだらないことしか話さない、とにかく最高のメンバーだ。
ちなみに、この当時「コピー&ペースト」という概念を知らなかった俺は全て手打ちだった。
他の格闘技サイトの運営者と観戦記のエクスチェンジをメールで行っていたのだが、自分が送った観戦記はものの一時間ほどでアップされるのに、自分が他人の記事をアップする頃にはいつも夜が明けていた。当然だ。送られてきたメールをプリントアウトして、それを見ながらの一言一句手打ちしていたのだから。
「タイピング早えぇ!俺も頑張ろう!」とタイピングソフトを購入し頑張ってみたのもこの頃。
今世紀最大の発明「コピペ」を教えてくれたのが、この仲間だった。未だに頭が上がらないし、コピペも知らなかった俺がこうしてブログを続けたり、デザイナーごっこが出来てるんだから人生とは面白いものだ。
平成9年10.1 『PRIDE.1』で第二次プロレス幻滅期
運命の髙田ヒクソン戦で第二次プロレス幻滅期突入。
しかし、今だから思えるのだが、幼い頃からプロレス八百長論と戦い、そして自ら失望し「U」に光を見出し、そしてまた失望するもプロレスに新たな光を見出すという変遷を体感出来た事は、本当に幸せな事だったと思う。
人は、常に、社会や世間とプロレスをしている。そういった社会と戦っていく上で必要なリテラシーの向上は、プロレスなしでは得られなかったと思うのだ。
プロレスに圧倒的感謝!!
心からそう思う。
ちなみに、この試合をチャットで実況していたところ、サイトのアクセスカウンターが1日で5000増。
ネットの未来を確信した出来事でもあった。
平成9年11月頃 田舎からついに上京
待ってろ「東京ラブストーリー!」をスローガンに、ついに東京デビュー。
住居は北区中里3丁目の1DK。最寄駅は山手線の田端、駒込。
父親の知り合いが駒込にいるということで、その方から不動産屋を紹介してもらい部屋を探したのだが、これがビンゴ。どの会場に行くにも最高のロケーションだった。
格闘技の聖地・後楽園ホールや東京ドームまではドアツードアで30分だし、K-1が開催される代々木第一や極真全日本の東京都体育館も30分圏内。武道館も隣駅の巣鴨から三田線一本だし、今や新たな聖地となりつつある埼アリも、田端から京浜東北一本という好立地!
そらぁ毎週後楽園ホール通うよねって話。
また、上京したことで選手との距離も俄然近くなった。
格闘技サイトをやっていたり、ほぼ全ての会場に顔を出していたこともあり、SBの吉鷹弘選手をはじめ、村浜武洋、緒形健一、キックの延藤直樹、土屋ジョー、鈴木秀明、小野瀬邦英、野崎勇次、テコンドーの速水勇、極真の守友完矢など(敬称略さーせん!)、当時の往年の名選手達と交流させていただく機会にも恵まれた。魔裟斗の出待ちで一緒に写真を撮ってもらったこともあるなぁ…取り巻きがチンピラだったけど。
ジョーさんや延藤さんとは、未だにお付き合いさせていただいている。いつもありがとうございます!押忍!
K-1ではめっちゃサインをもらったけど、その時の経験がアーセナルの選手の出待ちで生きるとは思いもしなかった。
また、ルンピニー王者アタチャイと伝説の死闘を繰り広げた鈴木選手からいただいたSARU-Tは今でも俺の家宝だ。
鈴木さん、ありがとうございます!覚えてないと思うけど(苦笑)。
そしてこの上京があったからこそ、今の俺があると言っても決して過言ではない。
生まれも育ちも東京という皆さんにはご理解いただけないと思うが、進学以外で、しかも仕事を辞めて田舎から上京というのは想像以上にハードルが高いものだ。
そんなハードルを一気に飛び越えたことで、俺の中で海外移住という選択は容易なものとなった。
東京からロンドンへの移住、それは田舎から上京するくらい、もしくはそれ以下の感覚なのだ。
ところで、この上京でもうひとつ俺得の出来事がある。それは牛丼が喰えるようになったこと。
田舎住みの時は牛丼が嫌いで嫌いでしょうがなかった。空手の先輩に無理やり連れて行かれた時などは、ため息をつきながら食べていたものだ(おかげで、その後キレられたけど)。しかし、上京したてで金がない俺に「牛丼太郎280円」という響きは魅力的すぎた。そう、俺の原点は吉野家ではなく牛丼太郎。
野方の牛丼太郎に圧倒的感謝!
平成10年7月 最初の空き巣被害
初の空き巣被害で早速東京の洗礼。
外に出るときすら鍵をかけなかい田舎との圧倒的違いを突きつけられた。
結構高い位置にある、幅1m、高さ20cm弱ほどの天窓から侵入。
当時、大阪のラジオ「サイキック青年団」を聴くためだけに「有線(現USEN)」と契約していたのだが、そのケーブルを引き入れるため天窓を利用していたのだ。
まんまとやられた。
部屋は荒らされ、幸福の木がなぎ倒され、そこにあったのは不幸のどん底だった。
警察に初めて電話したのもこの時だ。失礼があっちゃいけないと思い、せっせと部屋を掃除して待った。
そしてズカズカとタバコをふかしながら入ってきたスーツを着た刑事らしき男の第一声が「ダメだよ、片付けちゃ!」。
その響は未だに耳に残っている。リフレインが叫んでいる(言いたかっただけ)。
ちなみに、金目のものよりも真っ先に探したのが、渡辺美里西武球場のチケット2枚。
…あった!!!俺は空き巣に感謝した。
のちに、「一枚だけ持ってってくれても良かったのに…」と思うような出来事が起ころうとは、この時夢にも思わないのであった。
ちなみに被害は、2リットルのはちみつレモンに貯めていたペットボトル貯金、おそらく5万円相当。
平成10年8月 渡辺美里西武球場、最後の野外
これも絶対に忘れられない思い出だ。
空き巣に感謝した渡辺美里西武球場のチケット。これ当時の彼女といくはずだったのだが、ライブ数日前にフラれていたのだった。
でも「約束だから行ってあげる」っていうとーっても優しい元カノと一緒に行ったのだが、いやぁ、ミサっちゃん、全てが胸に響いたよ。
特にアコースティックバージョンの「ランナー」からの「10years」という神展開には、元カノも引くぐらい嗚咽せざるおえなかったよね。
「あれから10年も、この先10年も…」
これから10年、どうするよ俺…そして、「東京ラブストーリー」とは何かっ!!!
でも俺は今こうして生きてる!
最悪な西武球場だったけれど、これほどまで歌とは心に響くものなのか!という渡辺美里の素晴らしさを改めて再確認できた最高の西武球場なのであった。
ちなみにその後、何もせずとも3キロのダイエットに成功したことも付け加えておく。
平成11年7月頃 二度目の空き巣被害
またもやられた。
しかし今度は、しっかりと戸締りはしていたにも関わらずだ。
どうやら隣の部屋から侵入し、天井を伝い俺の部屋に侵入したらしい。だから俺は全く悪くない!
二度も入られてしまうというのは、アパートの立地に問題がある。すんげえ奥まったとこにあるんだもの。
その後殺人事件まで起きてしまうのだが、それは後ほど。
部屋は一切荒らされていないにも関わらず、なんとなくおかしい…と感じたのは、俺が東京に住み慣れた証、もしくは、初回被害で培った空き巣レーダーが働いたのかもしれない。
とにかく今回は「ビビビ」ときた。
ちなみに、最初に入られた東大生の部屋の被害はナッシングだという。なんだそれ。
当然この時も真っ先に探したのが、渡辺美里西武球場のチケット、今度は1枚。
…あった!!!俺は再び空き巣に感謝した。
ちなみに被害は、再び2リットルのはちみつレモンに貯めていたペットボトル貯金、おそらく5万円相当。
そして補足。
この空き巣の犯人は1回目の犯人ではないことを付け加えておく。
次回に続く
コメント
お・も・し・ろ・い・!
猿さんのブログ
感動しながら読ませてもらっております!
そういえば猿さんのブログに出会ってもう10年くらいになります
面白いです!
ネイソンさんの話に感動しました。
探偵ナイトスクープ案件だと思います!
すげーおもしろい!!
続き気になるので早くお願いします!!本当に猿さんの文章力には脱帽します!!